ノーイベント グッドライフ

0.はじめに

 世の中にはいわゆる「日常系」という漫画・アニメジャンルが存在する。日常系とは、登場人物、とりわけ若い女性キャラクター達の会話を軸に、大きな事件や出来事を伴わない何気ない日常を淡々と描写している点が特徴とされる(Wikipediaより)。概ねこのような解釈でいいと思う。有名なところで言えば、ご注文はうさぎですか?きんいろモザイクなどが挙げられるだろうか。そして、このような大きな出来事を伴わないという性格ゆえに、「中身スカスカでつまらない」「かわいいだけ」などと揶揄されることもしばしばある。

 しかし、思うに「日常系」をスカスカと評価するのは妥当でなく、その魅力・価値はかわいいだけにとどまるものではない。(もっとも、個人的には「かわいい」とか「観ていて癒される」という点だけで十分な魅力・価値があると思う。表現物は、実用的であるか否かという尺度で価値をはかられるべきものではないと考えるからである。よって、ここで考えていきたい魅力・価値は、「で、観てどうすんの?w」みたいなことを言う人に対する抗弁のつもりでもある。)そこで、この記事では「日常系」の魅力・価値、我々にもたらすものについて自分なりに考えていこうと思う。主に自分自身が「日常系」が好きな理由を突き詰めようとした結果物なので、人によっては全くピンと来ないこともあるかもしれないが、そこはご容赦されたい。

 

1.作品を全て観た後の喪失感

 「日常系」を観た(漫画ならば「読んだ」というべきだが、便宜上漫画を読むことも含め「観る」と書くことにする)後には、えも言われぬ喪失感に包まれることがある。これは非常に辛いものである。わからない人もそうなんだ〜と思ってもらえれば結構である。

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ネットでよく見るこのAAもこのような喪失感によるものだろうか

 なぜ突然喪失感の話をしたかと言えば、魅力とはそれを失った時に最も身に染みてわかるものだからである。そこで、以下では、魅力をはっきりさせるためにこのような喪失感の正体を考えたい。

 

(1)「日常系」におけるキャラクターの性質

 観た後に喪失感を覚えるのは、要するに何を喪失したのかと言えば、その作品のキャラクターであろう。そこで、ここでは「日常系」におけるキャラクターの性質を考える。

 定義から、「日常系」はキャラクター達の会話を軸に、大きな事件や出来事を伴わない何気ない日常を描写するものであるから、そのキャラクターは主に何気ない日常の中で会話をしているということになる。つまり、キャラクターは日常における様々な場面の中で発言し、行動する存在である。

 そうだとすれば、観る者からは、無意識にこのような言動や表情からある人格を想定する。そして、言動の場は、ある意味極限状態にあるバトル物やシリアス物とは異なり、日常であるから、同じく日常の中にいる我々にとっては、そのような人格はある種の親近感を覚えるようなものである。例えば、ステレオタイプな捉え方なのでゆゆ式のファンに怒られそうだが、日向縁を見て「この人はぽわっとしてるけど友情を大事にする人だ」と人格を想定し、そういう感じの人はおそらく自分の周りにもいるから親近感を覚えるというわけである(もっとも、見ながら意識してこのキャラはこうだと言語化まですることはあまりない。あくまで例えである)。

 もちろん、「日常系」に限らずキャラクターに人格を見出すことはあるが、「日常系」以外においては、キャラクターはストーリーを回すキーあるいは歯車としての役割が多かれ少なかれ与えられていることがほとんどである。それに対し、「日常系」においてはそのような側面がないだけに、観る者はキャラクターの人格性に着目する度合いが高いのではないかと思う。

 つまり、「日常系」のキャラクターは、強く我々と近しい人格を備えるという特徴がある。

 因みに、現実の人間についても、計り知るためにはその人の言動・表情・仕草などに着目して人格を想定するしかないことはキャラクターに対するそれと共通するという点も、親近感を覚える要因かもしれない。その意味においては、現実の人間の人格とキャラクターの人格の区別は曖昧である。

(2)キャラクターとそれを観る者の関係

 そんなキャラクターであるが、観る者とはどのような関係にあるのだろうか。キャラクターに人格を見出しても、自分となんら関係がない他人だと思うのであれば喪失感には繋がらない(し、実際そのような考え方の人もいると思う)から、喪失感があるのなら、キャラクターと自分の間に他人ではない何らかの関係性を感じているはずである。

 我々観る者は、1クールアニメなら12話、時間にして約10時間程度その作品を観ていることになる。それはつまり、前述のように人格を持ったキャラクターたちによる日常の会話・行動を10時間にわたり見るということになる。そして、「日常系」におけるキャラクターはほとんどの場合親友同士であり、作品に登場する会話の多くは友人同士(さらには親友)によるものということとなる。

 そうだとすれば、ある種の親近感を覚えるような人格(ある意味では現実の人間との境界も曖昧な)を持った友人同士の間に立ち、その会話の一部始終を聞いている我々は何者なのだろうか。そう、それはとりもなおさず友人であると言える。もちろん、キャラクターは我々を認知せず、我々もキャラクターになんら働きかけることはできない点で親友そのものであるはずがないし、また、観ている時も意識して「僕は友達なんだ(ニチャア…)」と考えているわけではないだろう。重要なのは、観る者はキャラクターに対し無意識に友人に類似した感情を抱きうるということである。(全くピンとこない人もいるだろうが、以下ではこのような感情を

前提に書くことにする。すみません。)

 

(3)喪失感の正体

 以上のことを前提とすれば、喪失感の一つの正体が明らかになる。「日常系」を観終わることは、キャラクターとの離別を意味する。そして、先に述べたように、観る者はキャラクターに対し、友人に類似した感情を持つ。従って、「日常系」を観終わることは、”友人”との別れである。観る者が感じる喪失感の正体はそこにある。それゆえに、オタクは続編を望むのである。続編は、”友人”との再開である。

 さらに言えば、続編がない限り、我々は”友人”と永遠に隔絶されることとなる。現実において、友人と永遠にお別れすることはそう多くない。通信技術が発達した現在においては、それこそ本当に一切コンタクトが取れなくなるのはそれこそ死別くらいのものかもしれない。それゆえ、喪失感の度合いは強い。(もっとも、キャラクターは友人そのものではないし、観た時間もせいぜい数十時間であり、現実の友人との離別と同視することは到底できない。また、「日常系」においてはキャラクターは終了後も依然楽しい時間を過ごすのであり、死別と同視まですることも不適切である。)

 また、このような喪失感を助長するのは、永遠に離別するのは自分だけという事実である。つまり、ストーリーの終焉において、友人間であるキャラクターたちと別れを告げるのは自分だけだということである。もっと言えば、自分が離別した事実にキャラクターたちは気付くことすらなく(当たり前だが)、観終わることによって、キャラクターと自分の間には超えられない次元の壁が厳然と存在することを強く自覚させられるのである。

 

3.「日常系」の魅力・価値とは何か

 では、「日常系」の魅力・価値とはなんなのであろうか。はじめに書いたように、「かわいい」とか「癒される」だけで魅力として十分であることを前提に、さらなる魅力について考えていきたい。

 先ほど喪失感について考える中で出た、友人に類似した親近感を出発点としたい。このような親近感を覚えるということは、我々もまた、キャラクターたちと同じように友人たちと日常の中でたわいない会話に興じる経験があるがゆえに他ならない。(現実の友人との間には上記のような超えられない次元の壁は存在しない。)それは何を意味するのか。そう、それは、我々もまた、そのような時間においては「日常系」の主人公に他ならないということである。美少女じゃなくても、JKじゃなくても、人生は「日常系」のような甘い時間だけではなくても、友人とのたわいない時間では、我々は「日常系」の主人公なのである。僕も、これを読んでいるあなたも、あなたの友人たちも「日常系」の主人公なのである。そして、「日常系」を尊く感じるのであれば、我々の友人との時間もまた同様に尊いのである。「日常系」の魅力とは、我々にこのような気付きを与えてくれる点にあるのではないだろうか。

 

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ご注文はうさぎですか?ではこのことが言及されている


  また、「日常系」は「大きな事件や出来事を伴わない」とされるが、そんな日常の中でもキャラクターは友人たちとの間で変化し、成長する存在である。例えば、保登心愛は香風智乃との日常で本当の「お姉ちゃん」になり、香風智乃もまた、苦手の人にも飲みやすいコーヒーを淹れ、うさぎが近寄っていくようになる(これらは彼女が朗らかさを得たことのメタファー・暗示である)。そして、香風智乃の例で言えば、このことは、彼女の夢である立派なバリスタへ大きく近づく変化である。それを踏まえれば、「日常系」は、私たちもまた、変化が乏しいようにも思える日常の中でゆっくりと変化し、成長し得る存在であることをも示してくれているということができそうである。

 

 そういうわけで、自信を持っていきていきましょう(?)お読みいただきありがとうございました。