さみしいも、たのしい。たのしいも、さみしい。

1.はじめに

ゆるキャン△  SEASON 2』が始まった。ゆるキャン△はキャンプの話であると聞くと、野山でのキャンプを想像する人が多いかと思う(し、確かに野山でキャンプするアニメである)。しかしながら、ゆるキャン△はただキャンプをするにとどまらず、登場人物はキャンプに付随して近くの温泉に行ったり、その地の名物を堪能することが多く、自分が最も強く惹かれる部分は、キャンプ自体以上に、むしろそのような旅の空気感の丹念な描写にある(キャンプ自体ももちろん良い。自分はキャンプをしたことがないので実感としてピンとこないだけである)。

 そして、ゆるキャン△の偉大な点は「ひとり旅」の良さと「みんなで行く旅」の良さの双方を描く点にある。ソロキャンプを好む主人公・志摩リンと、一方で、みんなで行くキャンプを好むもう一人の主人公・各務原なでしこが基本的にはそれぞれ別々にキャンプをしながら話が進んでいく、という展開構造がそれを可能にしている。特に、『ゆるキャン△SEASON 2』は、そのキービジュアルにおいて「さみしいも、たのしい」「たのしいも、さみしいをコンセプトとしていることからも、「ひとり」と「みんな」の対比が一つのテーマに据えられているものと思われる。

 今回は、このようなテーマを持つ『ゆるキャン△』の「ひとり」と「みんな」の描き方の良さ、そして、日常系の「ひとり」観に新たな視点を与えるだろうという話をしていきたい。こいついつも日常系の話してんな。

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さみしいも、たのしい。

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たのしいも、さみしい。

 2.これまでの日常系にみられた「ひとり」観

  日常系にみられる一つの類型として、

「ひとりがちな主人公がもう一人の外向的な主人公と出会い、徐々に幸せを獲得していく」というものがある。

 代表的なものに、『ご注文はうさぎですか?』、『ハナヤマタ』、『きんいろモザイク』(特に、『きんいろモザイクPretty Days』の綾と陽子)などがある。主人公が日常の中で幸せを獲得していく過程や心境の変化を丁寧に描写するものが多く、そこに、幸せになってよかったというエモが生じる。

 一方で、主人公はひとりがちでありながら、「ひとり」であるとはどういうことなのかはあまり触れられてこなかったように思う。すなわち、物語の展開は主人公の「ひとり」から「みんな」への片方向に進んでいくため、元来主人公がそうであった「ひとり」の状態よりも、むしろ「みんな」でいるとはどういうことかに焦点があてられてきた

 ここで一つ注意しておきたいのは、このような作品も「ひとりは不幸であり、みんなでいることが幸せ」という価値判断はしていないということである。主人公は初めからひとりがちで友達の少ない自分に対し少なからぬコンプレックスを抱えており、その場合に友達が増えることが幸せにつながることは当然の帰結である。この場合、志摩リンに代表されるひとりでいることに充足している人」に対しての価値判断は何ら含んでいない。

※もっとも、ひとりでいることにコンプレックスのある主人公像を措定すること自体、作者ないしは社会の「ひとり」への否定的な価値観が背景にあるかもしれないことは否定できない)

 

3.ゆるキャン△の「ひとり」観

 ゆるキャン△も、一見すると上の類型に属するように思われるかもしれない。確かに主人公・志摩リンはひとりがちだし、もう一人の主人公・各務原なでしこは外向的である。しかし、はじめに述べたように、ゆるキャン△は「ひとり」と「みんな」の対比を描いており、上の類型とは明確に趣を異にする。

 「ひとり」と「みんな」がどのような形で対比されるのか、ひいては上の類型とどのように異なるのか、もう少し詳しく見ていきたい。

 志摩リンは、キャンプは「ひとり」で行くのが最良と考えている節があった。特に物語序盤では、なでしこが「みんな」でキャンプに行こうと誘うのを拒絶していたが、アニメ1期の最後では「みんな」でクリスマスキャンプに行ってみることにする。そして、「みんな」とのキャンプも悪くない、と思うようになるのだった。

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違うジャンルの楽しさ

 ここからが肝だが、リンはそこで「みんな」とのキャンプに鞍替えするわけではない。もっと言えば、その後もソロキャンプを続ける中で、リンはむしろ、「ひとり」のキャンプの良さを再認識するのである。

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 一方で、「みんな」とのキャンプを好んでいたなでしこもまた、リンのこの言葉を受けてソロキャンプに挑戦する。そして、「ひとり」のキャンプも堪能しつつ、「みんな」とのキャンプに思いを馳せるのであった。(せっかくアニメでやるはずなので、細かい描写はアニメのお楽しみである)

4.終わりに

 以上に見てきたように、ゆるキャン△においては、「ひとり」と「みんな」は双方向である。「ひとり」を好むリンも「みんな」を楽しみ、「みんな」を好むなでしこも「ひとり」を楽しむ。そして、お互いの楽しみを受容して味わえるようになるところに、彼女たちの成長がある。また、それによって、「ひとり」と「みんな」は互いを高め合う関係にある。リンは「みんな」を楽しむことでより「ひとり」の良さを再認識し、なでしこは「ひとり」を楽しむことで「みんな」の良さを再認識する。

これこそがゆるキャン△の描く「ひとり」と「みんな」の美しさである。リンにより語られる「寂しさを楽しむ」という感覚それ自体もまた味わい深い。

 

 そして、「ひとり」を楽しむ者の存在(と、楽しみの内容)はそもそも今までの日常系では観念されてこなかった主人公像であり、それに伴い、「ひとり」と「みんな」の関係も、片方向だったものから双方向、相補的関係へという画期的な視点を日常系に与えたと言って良いだろう。この視点はこれから現れるべき日常系に受け継がれるかもしれないし、受け継がれないかもしれない。

(不安になったので書いておくが、この記事はこれまでの日常系を否定するつもりは毛頭なく、それらも他に変えがたい魅力のあることは昔記事に書いたとおりである。「ひとり」の視点のないことが欠陥であるとは思わない。)